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女将のひとりごと

今月のひとりごと -女将が日々を綴る-

女将 写真

安楽寺
姫の心に
燃ゆる赤
(鹿ケ谷 安楽寺さん)

久しぶりに鹿ケ谷へ足を向けました。うちとこから(私の所から)東北の方向になります。
鹿ケ谷通りに行くだけで中京とは3度ほど気温下ったはる感じどす。中京の喧騒からは空気感が全く変わり、湿度をたっぷり含んだ風を感じます。バス停の真如堂前からひたすら東に坂道を上がります。割と広い鹿ケ谷通りを横切り、桜の時には四条通りより人で溢れかえる<哲学の道>を無視してまだまだ坂を上がりますえ。
そしたら突き当りに、尼門跡寺院とか谷の御所とか呼ばれたはる<霊鑑寺さん>が見えますさかいその前を左へ行くと直ぐに<安楽寺さん>に着きます。

石段の先には茅葺屋根の山門が参拝者を迎えてくりゃはります。もちろん俄かカメラマンもようけやはって誰もいない茅葺山門の画像を狙ろたはりますけど、それは早朝やないと無理どすえ。今回はお坊さんの説明付きやって得した気分。30分おきくらいに本殿でお話が聞けます。

鎌倉時代の初めに法然上人の弟子、住蓮上人と安楽上人がここよりまだ東に「鹿ヶ谷草庵」を結ばはってお二人が勤める声明がほんまに美しく参詣者の人達も出家して仏門に入らはる人もやはったとの事どす。
その中に、後鳥羽上皇の女官、松虫姫と鈴虫姫がやはりました。
両姫は、念仏の教えを拝聴し感銘を受けて、いつしか仏門に入りたいと願うようにならはりました。
そのお二人は才色兼備で上皇からもご寵愛を受け、他の女官からの嫉妬も相当なものやったらしいどす。
今で言ういじめも凄かったんやろなぁ。

建永元年(1206)12月、両姫は後鳥羽上皇が紀州熊野に参拝に行ったはる留守の間に、清水寺で法然上人の説法を聞き、南無阿弥陀仏の念仏によって救われるしか道はないと自覚しゃはりました。
夜中秘かに京都小御所を忍び出て「鹿ヶ谷草庵」を訪ね剃髪、出家を願わはります。最初、両上人は出家を認めませんでしたが、両姫のお詠に感銘しゃはって、とうとう19歳の松虫姫は、住蓮上人から剃髪を受け「妙智法尼」と法名を授かり、17歳の鈴虫姫は、安楽上人から剃髪を受け「妙貞法尼」と法名を授かります。

この事を知らはった上皇は激怒し、念仏の教えを説く僧侶に弾圧を企てて、翌建永2年2月9日、住蓮上人は近江国馬淵(まぶち)(現在の滋賀県近江八幡市)で、同日安楽上人は京都六条河原(東本願寺近く)で斬首。この迫害は未だ続き法然上人を讃岐国(香川県高松市)に流罪、親鸞聖人を越後国(新潟県上越市)に流罪しゃはります。お坊さんのお話にちょっと身震いどす。あゝ怖!

その後、両姫は瀬戸内海に浮かぶ生口島の光明防で念仏三昧の余生を送り、松虫姫は35歳、鈴虫姫は45歳で往生を遂げたと伝えられています。
流罪地から帰京しゃはった法然上人が両上人の菩堤を弔うために草庵を復興するように命ぜられ「住蓮山安楽寺」と名付けはりました。その後、天文年間(1532〜55)に現在地に本堂が再建され、今日にいたっているとの事どす。
そやし別名<松虫鈴虫寺>とも呼ばれているそうどすえ。

本堂にはお二人のお姫様の像もあり、お軸には剃髪しゃはるお姿が描かれ思わず見入ってしまいました。
こじんまりとしたお寺やさかい、ゆったりとお庭も見ていられますし、お地蔵さんの前にあるハートにくり抜いた蹲も可愛くて、鹿ケ谷かぼちゃの形をした石像にもフッと笑顔になりますえ。

そうそう、ここの境内にはカフェ<MOMIJI>があって、ほっこり出来ますえ。うちはちょっとお腹も空いていて、ピザトーストとカフェオレを。うーむ。カフェオレは泡ばっかりやしコーヒにしといたら良かったとちょっと後悔。ピザトーストはサラダも付いていて満足どす。石油ストーブも点いていて、むっくり暖かく紅葉の庭を見ながら、二人のお姫様と時空を超えて喋っています。ふふふ

弥生 女将

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